わらべうた程度の重さで口をついて

エッセイと、時々質量140字の文章。

犬にも猫にもなれないで

『自分にこんなにも良くしてくれる、この人たちは神様に違いない』

 

と思うのが犬で

 

『この人たちがこんなにも良くしてくれる、自分は神様に違いない』

 

と思うのが猫である。

 

健気で忠実な犬と、図々しく堂々と生きる猫の、それぞれの愛くるしいポイントが、真反対の方向に突っ走っているのを、これほど分かりやすく言い得た言葉があるだろうか。
犬派猫派という、不毛にて平和な派閥があるのも納得である。

 

ならば、人はどうだろう。
他人にびっくりするほど良くされたら、どんなふうに自分の中で、そのびっくりを消化するのだろう。
「あの人は子犬のような人だ」とか「猫みたいにマイペースね」とか、犬や猫に一部分を喩えられる人は結構いるが、その全てが犬ほど健気になれるか、猫ほど堂々としていられるかと言えば、難しい話だと思う。

 

『自分にこんなにも良くしてくれる、この人たちは何を企んでいるのだろう?』

 

と疑ってかかるのが、人の大半なのではないかと私は思う。
犬や猫と違い、人は他者から与えられた愛に、お金や物を返さなければいけない。
愛嬌を振り撒いて、尻尾を振ってるだけではどうにもならないことが山ほどあることを知っているから、やたらと良くされると身構えるのだ。

 

私は犬にも猫にもなれないし、なのに、人になれる基準値までも大きく下回っている。
なんて、卑屈な思考に叩き落とされがちなのは、私の悪い癖だから、何になろう?と肯定的に、希望を持って考えてみることにする。
誰かの喉を潤す水?誰かの薬になる草?
案を出していくと、どうも私は、他者の心の何処かに、自分がいてもいい居場所があればいいなと考えてるところがあるようだ。
液体でも固体でも気体でも、拘りはない。

 

そうだ、誰かの概念になろう。

 

我ながら良いアイディアに落ち着いた。
誰かにとっては優しさで思い出せる存在に、誰かにとっては薬のような苦味を残す存在に。
その時々で、幾らでも修正可能で、古い風のように忘れる人は気軽に忘れていける。
そんな概念になりたい。